Art / アート


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ArtArt2022/12/14 23:372024/7/4 7:44

What is Art?

僕たちがアートを言葉にする時には相手がいる.或いは僕たちの中に客観的な僕たち(鏡像)がいる.ここでは面倒を避ける意味でもアートの意味を確認したい.
近代社会で言うアートはヒポクラテスの言うアート(医療技術)ではないことは確かだろう.世間はおそらく絵画や彫刻などのマテリアル自体か文字としてアートを認識している.アートという文字言語にはシニフィアンが与えるイメージがあるのだろうけども,それ自体には始めから「意味」はないと思う.でも僕はそれを滔々と考えてしまう.
アートの意味については養老孟司先生や千葉雅也先生の知恵と言葉を織り交ぜて記したい.共感の熱が冷めない間に.
環境という言葉を使う側(ヒト)には環境と使う側を分けている.環境に自分がいないと暗に認めている.
僕たちが原初に持っていた万物流転の感受性が薄れてしまう社会構造がある.
デジタル化の言葉に潜みつつ単調化する社会が広がっている.本来の多義的な解釈が「良いか悪いか」「ゼロかイチか」に縮退する傾向が強まるばかりだ.
何事にも時間制約が強いと感じさせる社会構造それ自体にカラクリがあるものの,個人の縮退された思考は認知負荷が低いと言わざるを得ない.認知負荷の低さこそが現社会が必要としているものであり,コスパ・タイパ概念と密接に関係している.
コスパ・タイパ概念を生み出す社会では,単調化が積極的に肯定される.単位時間あたりの行動エネルギー(表層的な価値)が増えていき,感受性のエントロピーが削ぎ落とされていく.
 

社会の単調化

 つながりの鈍化

  自然が置き去り

 
肯定と反抗の存在は共依存である.僕たちが都市化を肯定するほど,個人の意識に関係なくアートが決定的に肯定される.だからこそ現代ではアートが浮き彫りになるのではないかと思う.都市化が存在しない世界ではアートという概念を使う意味がどこにあるのか.その時は僕たち自体がアートなのだから.

表現としての欲動

アートは結局のところ言語が生み出す想像と象徴であり,シニフィアンが大いに支配している.けれども,そこにはいつも言語化できない何かが残っている.言語化できないということは表層世界ではなく現実界(非言語な無意識,下部組織)の出来事と思われる.「何かが残っている」の正体が何であれ,どうにかしたいという欲動それ自体を僕は「表現」と呼ぶことにした.
 

アートは表現

 
内発的でもあり外発的でもある.肯定と反抗を行ったり来たりし,その間にこそ生まれるものだと思う.或いは表層世界(象徴界が支配する想像界)と現実界の行き来かもしれない.
だから僕がアートとして意味するものは必然的に“expressive arts”「表現」になる.肯定と反抗が入れ子構造で表現しているものになる.そこに原初への回帰(究極的な安心=死)と生存本能(死への反抗=生)のせめぎ合いを見る.

Expressive Art

不変化(記録)と変化(記憶)を考えた時,近代も現代アートもどちらかと言えば不変化である記録を直視しているだろう.
博物館や美術館を考えてみるとよくわかる.或いは修復作業や復元作業を考えてみるとよくわかる.修復作業が与える「歴史学的な知識累積の期待」は容易に想像できる効果であるものの「作品が朽ちゆく中に肯定的に意味を探求しない」のはなぜだろう.
本来のアートは「自然」のように変化しているはずなのに,それを「不自然」に人工的に食い止めようとしている.都市化の反証存在としてあるものがアートではなかったのか.当惑させられる.
 

自然は変化する

 変化するものは自然

  ヒトは変化する自然

 
一刻と変化する自身に意識が向かず,過剰に発達した神経回路に支配された自我を持ち,自らはどこかいつも不変であるという幻想だって生まれている.寸刻先の僕たちはもう同じではないのに.
ここの意図的なシニフィアンから意識を逸らさないで欲しい.「あなた」と「僕」に伝えている.
どうして生と死が常に両立しているとは一切考えずにどちらか一方と考えるのだろうか.そのような思考が他人や社会に蔓延する.見えない監視人を作り出す.社会はこれまでそうしてきたし,今も続けている.感受性を持つ僕たちには多義的に解釈する余地があっていいはずだ.
単調化が進んでいるため「多様性」を言葉に出し始めている.何かすごく変だ.
言語化された多様性は西洋的な意味であり,おそらく多様性を伴っていない何かだろう.今の単純化社会にとって都合の良いフレームとしての多様性(これを「個性」という言葉で覆い隠している)であり,僕たちが原初に持っていた多様性(つまりは狂気を伴う特異性)ではない.アートはこのような縮退した社会にこそ光と影を優雅に被せる.
「アート=表現」と認識すれば,それがデジタルであっても当然アートだろう.物理的に身体で触れられる彫刻や絵画は時間の経過で見た目は一刻と変化するものの,絵画などが都市化の反存在的として生まれたものならば,それがデジタルか否かに関係なく全てアートでなければならない.
もしあなたが不変な「記録」する意味からアートを捉えてしまうと,彫刻や静止画のように時間と共に朽ちるものこそが重要と思えてくるのかもしれない.「自然」に朽ちることを防ぎ,「不自然」に修復するぐらいに.
デジタルには朽ちるという時間経過は考えられていないが,コンピューター環境自体の変化や生成されたものを感受するヒトの記憶にまで存在意義を認めるのであれば,デジタルにも時間が生まれる.

フラクタル

僕は物理数学に触れながらサイエンスのほとんどを波動に注ぎ込んだ.研究時に波動で世界が記述できるのではないかという錯覚に何度も襲われた.花の形状,葉の形状,海岸の形状,貝殻の形状,モナリザの形状,人体の形状,銀河団の形状などに自己相似性を見た.それらと自分自身に自己相似性を見た.この周期性は数学表現そのものと考えている.
古くはセル・オートマトンエッシャーの絵画或いはパッヘルベルバッハのカノン様式の音階に見られる奇妙な回帰機構は,数学の美的センスと言うよりも説明しがたい神秘がある.フラクタルマンデルブロボロノイが示す非線形的規則性構造や回帰機構そのものが多次元的に黄金比に載っているという高揚感さえ誘う.
Expressive artsの中でもジェネラティブアートはアートとフラクタルを繋ぐアプローチであり,デジタルであるがためにアートの定義や意義の更新が出来る可能性もある.デジタルが朽ちるというテーマも含む.
こうした規則性構造がジェネラティブアートとして仮に表現出来れば,部分的とは言え自然を視覚的に再現していると言える.この一連の思考所作はシミュレーション仮説の実証である.
これがジェネラティブアートに魅入る理由であり,茂木健一郎先生が言うIKIGAIの一つだ.

GLSL

どのようにアートをジェネラティブにしたいか.サイエンスで体験してきたプログラミングは頼れるところなのだ.GLSLを選んだ.ピクセル画面にレイマーチングでGPUレンダリングするシェーダである.マルチフラクタルは非整数ブラウン運動(fBm)でレイマーチも出来るし,パーリンノイズを生成して視覚的な自然構造を模倣しやすい.
プログラミングをminifyしながらフラクタル特性をmaximizeするバランスこそがシュミレーション仮説への着眼点である.オンラインエディターであるtwigl.appの制約geekest(300 es)を使用して,プログラミング300文字以内で生成している.文字数の少なさは重要なのだ.

作品例

受賞

  • 入選 @ニューヨーク公募展 (2024) “galactic soup
  • 入選 @New Art ZERO (2024) “the fractal space
  • 入選 @New Art ZERO (2024) “the universe in the fungus
  • 入賞 @Un Do (2024) “macroscopic microscope
  • 入選 @New Art ZERO (2023) “ocean to life
  • 入選 @New Art ZERO (2023) “metamorphose
  • 大賞 @アジアデジタルアート大賞展FUKUOKA (2022) “upwelling mantra