Abhidharma / アビダルマ


ENG
AbhidharmaAbhidharma2024/5/19 1:482024/5/19 11:34

戯言と遺言が反響する

哲学では大乗仏教をベースに宇宙原理(ブラフマン)と個(アートマン)の同一性について眺めているので,インド仏教の一つである小乗仏教に意識を向けてみる.
これは,自身を眺めている自身からのメッセージであり,同時に縁を持つあらゆる自身以外に向けた一方的なメッセージにすぎない.

説一切有部の世界

小乗仏教である説一切有部の世界観では,一切のダルマが過去と現在と未来の3世同時に実在している.ダルマは仏陀の弟子たちによる教え(アーガマ)であり,また法である.この教えの文献分析として考察したものがアビダルマ.
3世にダルマが同時に存在することは,諸行無常と矛盾しない.ダルマはその刹那に存在し,そして消滅(刹那滅)しているから.このため,それぞれの瞬間的なダルマは,未来から過去にわたって常に存在し続けていながら,またそれ故このことによって因果となり,諸行無常である.現世に出るダルマは未来にすでに存在しているということだ.
アビダルマの関心ごとは,宇宙原理ではなく,有情の原因となる人間の生それ自体にある.有情(サットヴァ)は,心に起因あるいは影響をもたらすものすべてであり,この関係性それ自体のことである.
関心ごとの意味で宇宙と人間がラベル分けされているものの,宇宙エネルギーと人間エネルギーの根源は同じであると考えている.

すべてはダルマ

有情の外面的な世界は3界あり,欲,色(物質の世界),無色(精神)に分けられる.
説一切有部では,この外面的な世界に住み続ける限り(肉体的な意味ではない),輪廻転生は全て有漏であると言う.有漏とは,煩悩を持つものすべてであり,悟り(解脱)への道自身も悟りを意識している時点で有漏である.人間の生存自体のすべてが因果にある有為であり,また,同時に欲望され執着する有漏である.
有漏に対して無漏があるが,無漏は悟り.無漏に至るには知識が必要であり,ブッタはこれを実践的に捉え,仏教は理論的に捉えている.
無漏は,現実の生のすべてが,無常を無常と知り,有為を有為と知り,それによって欲望と執着が薄れることで,涅槃に転換する領域にある.従って,涅槃の境地は無為であり無漏.
アーガマは,有為と有漏,無為と無漏を同時に並列して扱うことができるため,これらは「世界のすべてのダルマ」を捉えていると考えることができる.

無常と苦と無我

ダルマの体系には無常,苦,無我がある.
すべては無常であり,無常が故に苦であり,苦はすべて無我である.すべては諸行無常であり因果関係であるけども,これを理解せずに執着するほど苦しくなる.諸行無常が苦である時,不変な「我(アートマン)」と言うものは存在しないため,よって無我だ.言い換えれば,有漏の事物はすべて現象として生成しているだけであって,それ自体を根拠づける絶対的な本質は存在しない仏教の教えを考える.
仏教は絶対性を見つけないし,不確実性も見つけないし,偶然を見つけない.あくまでも論理性を見つけるものであり,これを縁起と呼ぶ.

梵我一如

瞑想などによってブラフマン(梵)とアートマン(我.生命の本質.次々の輪廻転生)が合一化され,ついには輪廻転生を超える境地がある.これが梵我一如.空海はこれを即身成仏とした.
ミクロとマクロ,一つとすべて,ブラフマンとアートマン,僕はこれらの合一化を感じる.