Philosophy / 哲学


ENG
PhilosophyPhilosophy2022/10/8 23:592024/5/19 2:04

溢れる好奇心

哲学は僕たちを座標に浮かび上がらせる.
哲学のアップデートは異なる行動と価値観をもたらす.呼吸が優しく僕らに寄り添うように哲学もそこに在るだろうか.
哲学に対して空虚な距離を置くことは個人の自由と考える場合もあるだろう.けれども健全な視点を取り戻したいなら不当にそう思わせている近代の巧な社会構造に注意を払う方が良い.実は個人の不自由さが隅々に広がっている.結局は僕たちが社会的に倒錯させられていると気がつくだろうか.気がつくヒトは必然的に少ない.少なければならないので少ない.
 

価値は虚にして無限

 
自らの不自由さを思わない又は思う.思っても対策を考えない又は考える.考えても行動に移さない又は移す.
問いたいこと.それは批判性を伴う思考が自分の内部に生まれ続けているだろうかということだ.自分の中に生まれていない場合はその価値観は既に硬直している.そう聞いてあなたが不愉快に感じたほどあなたは硬直している可能性が高い.
未知なる概念や事象に触れた際の反応の違いはわかりやすい.原初の原動力があれば自ら進んで調べるはずだ.幼年期に「母性」から与えられた溢れんばかりの好奇心のことを忘れてはならない.そこには安心と不安の無限の往来があったのだから.
積極的に理解を獲得しに行こうともせず,自らの行動が伴わない原因を未知なる対象自体に帰依しようとする姿勢こそが硬直した姿と言いたい.
 

ゼロかイチかのような答えが存在すると思う姿勢


答えを簡単に得られると思う姿勢


簡単に得ることがコスパ良しと思う姿勢

 
これらを植え付けている強かな集合知社会が在るという指摘をしたい.人々が発展として進めてきたものの姿がそこにある.世代を超えてまで僕たちが望んできた姿かも知れない.これは皮肉ではない.僕は真顔だ.
 

水が低きに流れて安定を求めるように硬直化を求めるあなたの心も低きを求める

Contemporary Philosophy

何かを決めつけて断定すること(脱構築で批判),時代の潮流に流されながら審美的な考えをもつこと(死に至る病で批判),数の多さに正しさを見る姿勢のこと(自由論で批判).僕は強く抗う.抗うことで見えるものを追いかける.
千葉雅也先生の著書との出会いに感謝と日々増す敬意を示しながら自分を通じた現代思想をまとめる.
哲学はどこで生まれるのか.
自らの経験や学習で哲学をアップデートする場合や本の知恵を授かる場合がある.思いもしなかったことや曖昧だった考えが,突如として存在感を増す感覚を本や出会いによって与えられてきたように僕は思う.
これらの出会いと実体験を絡ませる.決して綺麗にならない澱んだ思考の往来を懲りもせずに繰り返す.実と虚.意識と無意識.これらの接線付近でこそ踊れるから.接線付近が晴れ舞台なのだ.
この舞踊に終わりはない.求めている世界に近づくことは決してできない.むしろ思考の往来によって世界が遠のいている気さえすることもある.自分に笑うものの,これが面白いからこそヒトは永遠に探求してきているし,僕もそうあり続けるだろう.
思考力の足りなさや探究の少なさが原因なのではない.僕たちが限りある存在であることそれ自体が原因なのだ.これは深淵の話であり,表象世界に対する「情」の話でもある.
この身体で感じられる価値観は多くの出会いが影響し合ったものだろう.鏡像的な自我がある.彼らの訴えや悩みは複雑で大きな輪の交差によって壮大な輪廻を繰り返している.様々な主張や想いが僕の中に反発しながら共存している.何が正しいとかではない.
僕には哲学を評価したり比較したりする意図はない.評価しようと意識する瞬間,狭くて存在もしない居心地の良くない空間に閉じ込められる.やりたい事と出来ることを全力で行うのみである.それだけ.
哲学は極めて緩やかにして意味深に森羅万象に欠かせない空間だと思うし,ヒトや社会の価値観の更新を行うコンピュター基盤のようなものと捉えている.
ショーペンハウアーニーチェに感謝.デュオニソスの宴で無邪気に踊れる自我をくれたから.
 

あなたも僕も偶然の輪


僕たちは同じに同一に非ず


偶然に感謝 母性に感謝 自我と無意識に感謝

 

宇宙と感覚

人生やその存在などを考えると,次第に宇宙に手を伸ばしたくなる経験は皆も持つ感覚なのだろうか.
現代のサイエンスでは宇宙起源をビッグバン仮説に説明している.そうであれば,この世界は受け継がれた連続とも言えるし,宇宙の残滓とも言える.
数学者であり哲学者でもあるパースは,偶然主義(Tychism)を求めた一人で,僕たちの五感を通じて感知する感覚群それら自体が,宇宙の残滓によるものと考えた.
この考えに否定し難い共感を覚えるのは,壮大な宇宙進化のイメージと個の可能性を同時に感じるためだろうか.但しここで無視できない部分がある.それは時間についてだ.
ビッグバンからの現代に至る宇宙構造と古の宇宙から現代に至る残滓感覚.ここには必然的に時間の概念が埋め込まれている.それも方向性を伴っている.そうであるならば僕たちや宇宙全体,或いはそれ以上のスケールでの「存在」それ自体に入るには別の哲学を探したくなる.ここに偶然来たあなたもそうだろうか.
多変数複素関数論で著名な岡潔先生によれば,ヒトは過去や現在という「時」の中に存在しているが,それは真に「時間」ではないと指摘している.僕のニュアンスでこの辺りを書き下すなら,過去や現在という分類はあくまでもヒトの五感で感覚的に共有できるものでありパースも例外ではなかった.一方の「時間」と称するものはヒトが直感的に理解できるような方向性を持つとは限らず,またそのような類でもない可能性がある.
結局は「時」も「空間」も感覚的に伝えている次元では五感の域を出ない.五感の向こう側は証明が出来ないものであるが,偶然に感じる事はあるかもしれない.
ヒトが直感的に感知できない素粒子のような小さな世界や銀河団のような大きな世界の存在は自然科学でも少しづつ認め始めたが,それらの世界を中心に自分たちの現在地を修正するという考えには西洋は至っていないようだ.宗教を避けては通れぬ問題になる.
 
 

存在の向こう

脱構築していない思考で「存在」を考える時,それは同時に「存在しない」ことを考えている.この時は典型的なゼロイチ思考を持っている.仮にそのどちらでもない状態が肯定されるとどうなるのだろうか.考えたことがあるだろうか.
この感覚はシュレーディンガーの猫に見られる量子の観測前の状態に近い.2022年にはヒトの脳は量子状態であるという主張も出始め,現代のサイエンスでは解くことが困難とされる意識の説明に繋がらんとしている.量子脳理論として知られており元々はペンローズが提唱したものである.彼は2020年にノーベル物理学賞を受賞した.
ビッグバン仮説の周辺では何からビッグバンが生まれたのかという課題が常に付きまとう.この有力な説明の一つとして「宇宙空間は真空であっても厳密には量子真空状態であり,膨大なエネルギーが凝縮している」というものがある.
宇宙インフレーションのビッグバン時には真に無ではなく,量子真空状態であったという主張だ.その状態は今も存在しているとする.量子真空を埋め尽くすエネルギーは特にゼロポイントエネルギーと呼ばれ,アインシュタインの相対性理論における時空連続体と繋げることができる考えだ.
量子真空は真に真空であるため一切の減衰が起きない.感覚を含む情報エネルギーはその伝搬も含めて純粋に波動であるが,減衰が起きないということは永遠に波動が存在することになる.可視光やそれ以外の波動は媒体を伝搬することで例外なく減衰するし,受容体に受け止められた段階で伝搬の方向が出力へ変化する.これらの現象が量子真空では起きないと言える.
仮に永遠に波動が残っていると考えると,そこには時間的な古いと新しいの区別はもはや存在しないため,僕たちが考え感じている過去と現在と未来は全て同時にそこに在るとも言える.表象世界の全てや現実界も在るのかも知れない.
 
 

Zero-Point Field

量子真空状態を保有するエネルギー場はゼロポイントフィールド(Zero-Point Field: ZPF)である.この考えとの出会いは原子力学者であり経営学者でもある田坂広志先生の著書だ.
多くが感じるであろう「不自由なハードル」は大切な意味をここでも持つ.不自由なハードルとは多くの知恵と思考対決を経てきた「結果としてのZPF」を,明確な理由もなく懸命に拒絶する認知負荷の低い姿勢である.著者はビッグバン仮説を例に取って,ビッグバン仮説は当初受け入れられなかったが宇宙マイクロ波背景放射で結局は裏付けられたという歴史を戒めている.
あり得ないと断定するにはそれ相応の用意が必要なのだ.簡単なことではない.多くは何ら用意をすることもなく認知バイアスの香りに誘われて無意識レベルで拒絶しているということだろう.このハードルの存在に意識が向くだろうか.一瞬でも考えたら良い.僕たちはアインシュタインの相対性理論や南部陽一郎先生も追及した超ひも理論を理論的に否定するマテリアルを持ちあわせているのかどうかと.ないならば少なくとも言える最低ラインは「わからない」だと思う.
ZPFは現代のサイエンスで論理的に説明がつかない事象である意識,既視感,予感などに合理性の芽を息吹かせる可能性がある.波動が完全無欠に減衰しないことから,時間のみならず空間も超える考えに到達するZPFは異なる宗教同士をも融和する.

阿頼耶識

仏教の唯識思想における阿頼耶識では過去と未来の原因が同時に存在していると考えられている.同じく仏教の般若心経と華厳経では,色即是空・空即是色でいう世界=色が真空から生まれているものと,奈良の大仏が表現する一即多・多即一の教えがそれぞれにある.或いはインド哲学アーカーシャでは宇宙生誕以来の情報が記録されている場があると考える.宇宙に星々があり,星々に私たちがあり,私たちに細胞があり,またその反対がある.円環.
円環と円環を超越(解脱)する関係については,空海の即身成仏,即ち梵我一如の話に譲るとしよう.
これらの世界観において僕たちが現在の社会通念で使っている時間の概念は通用しない.生と死という概念に再認識を問いているのだ.時間の概念を希薄化することができれば,子供が感じやすい前世の記憶や起死回生の人々が体験しやすいという臨死体験にも説明を求めることができる.あらゆる情報は全てそこにあるわけだから,そのどれを連続的か断片的に感じ取るかということになる.
あらゆる情報は宇宙に埋め尽くされている.そこにあるものは単なる集合情報ではなく高らかに意識と呼ぶべきだろう.
 

宇宙意識

ヒトは人格や性格という言葉を外部世界の認識を通じて身につけて自己認識する.それがなければ自己保持をすることができない.三宅陽一郎先生が言う客我だ.或いはラカンが言う自我である.
宇宙意識の立場からすると自我は解れるとその場に硬直することができず,宇宙意識に触れる方向に進んでいくものと考えることができる.この意識に触れる方向は仏教でいう悟り・解脱の状態であるし,トランスパーソナル心理でいう超我の境地に相当する.仏や諸宗教でいう神に近づくことに他ならない.主体との出会いになる.
ZPFは仏や神と融合するもの或いは同一視できるものと言える.僕たちは宇宙意識なのかもしれないし,そう思えると刹那だけれども幻想的な安らぎを覚える.

アートと共に

僕はZPFの知識なく「フラクタルや三角関数などの構造的で繰り返しの数学表現で表層世界を記述できるのではないか」という止まらぬ狂気か或いは好奇心に近い感覚と付き合っている
自身で定義し続けるアートでこの狂気を埋めようとしている.この狭い世界概念に対してZPFは無かった色の光を注ぎ込んでくる.
もっと近づいてこいと挑発してくる.
それが自分だと気がつく.